やっさん(12)
- 作・深尾澄子(ふかお・すみこ)
- 1941年生まれ、大阪府出身。府立今宮高卒。元大阪府池田市役所職員。2021年「ノースアジア大文学賞」大学生・一般短編小説の部最優秀賞。兵庫県川西市住。
- 絵・今井恒一(いまい・こういち)
- 1949年秋田市生まれ。秋田商高卒。秋田美術作家協会会員。同市住。
待つこと十分。けたたましいサイレンと共に、救急車が到着した。
やっさんは、逞しい救急隊員らの手で、あっと言う間に担架に乗せられた。車内で、住所・氏名・年齢を尋ねられると、酸素マスクをずらし、弱々しいながらも淀みなく答えた。
「川西市メジロが丘○○丁目△番地××号、木部安造、七十八歳」
意識は明瞭だった。
市内のD病院に搬送されて、そのまま緊急入院の手続きがとられた。一緒に救急車に乗ったものの、文代は家族ではないので、入院同意書にサインができない。看護師は、先刻からチカに連絡を取ろうとするのだが、全然つながらないと嘆息した。
「娘さんが言うには、須藤さんが救急車を呼んだんやから、今回の入院に自分は係わりとうない、とか……」
「はあっ? なんですねん、それ」
文代は、思わず色をなした。目の前に倒れている人がいれば、誰だって救急車を呼ぶだろう。
「まあ、いろいろご事情がおありのようですが……」
「事情なんてあらしませんがな。私はただの友達ですし。なにけったいなことを言う娘さんやろ」
憶えず渋面になった。彼ら親子は、日ごろからほとんど会話がないから、こんな場合にいろいろ齟齬をきたす。迷惑な話だった。
やっさんは、どうやら熱中症を起こしていたらしかった。冷房のきいた病室で点滴を受けている間に、徐々に体調が回復したのか、弱々しいながらも目に光が戻ってきた。
「すまねえだな、まンだ、こげなどごさつき合わせて」
「かめへんよ」
文代は、目まぐるしかった今日一日の出来事から、解放されつつある安堵感を覚えた。とにもかくにも、緊急事態からは脱出できた。今夜はシャワーだけでなく、ゆっくり浴槽に浸かり、薫からプレゼントされたフランス製のオーガニック・シャンプーで、心ゆくまで髪を洗おう。
いつしか日は落ちて、窓のブラインドの隙間から夕闇が透けて見えた。国道沿いのせいか、車の騒音に混じって街のざわめきが潮騒のように響く。
救急救命室は、どこの病院でも慌ただしい。医師と看護師は、やっさんの容態が落ち着いたのを見届けると、あたふたと病室を出て行ったきり戻ってこない。
「おめ、腹っこ減ってねえだか」
「私はええねんけど、ポテトが待ってるやろな」
「もう、おめェはけえってもええんでねえだか」
「けど、このままチカさんと連絡つかへなんだらどうなるんやろ」
「なァに。おらが電話すればあれも出るべし。もう、おらのごどはここに任せておけばええだに」
言いざま、やっさんは点滴の針の刺さっていない方の手を伸ばして、ついと文代の手を取った。
「実は、さっきから考げえていただが――」
彼は、ゆっくりと瞳を巡らして文代の顔を見上げた。
街のざわめきと車の騒音が、ふっと途絶えた。静かな夜だった。
「ふうちゃん。もう、おらのごどさ、捨ででくれてもええだに」
文代はハッとした。思わずやっさんの顔をまじまじと見直す。
「捨てる? それって、友達やめるいうことか?」
「ンだ。なげえごと、ええ思いさ、させてもろただがら」
フサフサしたまつ毛の奥の灰色の瞳が、海のような哀しみの色を湛えていた。
ふと、文代は、彼が即断即決の人であることを思い出した。
「あんた、それでええのんか」
「ええもわりィもなかんべ。チカだばあげにじょっぱり(頑固)だはんでの。おらの身体もはァ、こごまでくりゃァ、もは……」
「今までかて、何回もそんなことあったやんか。今度もきっと――」
「いやいや。この先チカに痛ぐもねえ腹、探られるといけねえ。おら、もうおめェに電話しねだがらな。おめェも携帯さ着信拒否にしてくれてええだに」
やっさんは、鼻を啜りあげた。枕もとのティッシュを取ってやると、握っていた手を離し、ズルズルと鼻をかみながら、独り言のように呟いた。
「ンだどもおらはおめェのごと、この先もずっと忘れねえだがらな」
そうだ。今まで何度このセリフを聞いたことか。そのたびに文代は、(ありゃ、また言うてる)と、声を出さずに苦笑した。しかも、そのセリフには時折、面白いバリエーションが混じった。
「おめェのごと忘れねだども、おらの生きてる間だけだな、それも。したっけが、死んだらなじょして思い出すべか」

(またしょうもないたわごと言うて)と聞き流し、洟にもひっかけなかった。
――だが、その時は違った。
文代は、屈み込んでやっさんの瞳の奥を覗き込んだ。そこに、小さく自分の顔が映っている。それを直視しながら、彼女は今まで言ったことのないセリフを、初めて口にした。
「私もあんたのこと、絶対に忘れへんよ」
一瞬、沈黙が落ちた。
今度は、文代が手を伸ばして、やっさんの木の皮のように固い掌を両手に包んだ。そして、そっと頬に押し当てた。すると、やっさんの灰色の瞳に、みるみる涙が湧き上がった。
「知り合ってハァ十二年。おらァ、おめェのごとが、ずっとずっと好きだっただ」
そう言うと、彼は声を上げて幼児のように無防備に泣きじゃくった。
「おめェどの、あのごとも好きだっただ。こったら齢になったおらみでえなおどごと……」
文代は顔を赤らめて、一瞬口ごもった。
「私、ああいうこと苦手で――。あまり協力できなくてごめんね」
「なあに言うだ。おらはあのどき、いづも感じたもんだで。今、生きてるだなあと……」
やっさんは、泣き笑いの表情になった。
(自分はあの時、今、生きているのだなと感じた)というのは、彼にしては珍しく詩のあるセリフであった。
東北の男は、泣き虫なのだろうか。きっとそうだ。そうに違いない、と文代は思う。
♪破れ単衣に三味線だけば
よされよされと雪が降る
泣きの十六短い指に
息を吹きかけ越えてきた
アイヤー アイヤー
津軽 八戸 大湊
北島三郎の唄うこの『風雪ながれ旅』(作詞:星野哲郎・作曲:船村徹)は、半盲の太棹三味線の名手、高橋竹山の若き日を歌ったものだという。そこに、やっさんの姿が重なった。
彼は三味線の代わりにツルハシを抱いて、故郷を後にした。さまざまな苦難が十六の肩にのしかかり、あたかも降り積もる雪が、よされ(=生きていても苦しいだけだから、早くこの世から去れ)世去れ、と言っているようだ。
そのたんび天に向かって、「アイヤー、アイヤー」と彼は叫んだのであろう……。
文代が帰ろうと腰を上げると、やっさんはふだん通りの仕草で枕元のカバンかられいの黄色いビニールの財布を取り出し、千円札を一枚抜くと「これ、電車賃だ。取っといてけろ」と、彼女の手に押しつけたのだった。
やっさんはその日を境に、文代の前から永久に姿を消した。彼に関する情報も、プツリと途絶えた。従って、彼女にとってやっさんの命日は、その別れの日なのであった。
五年が過ぎて、文代は傘寿を迎えた。
カラオケ・グループは解散し、メジロが丘老人会のかつてのメンバーの八割方は、姿を消した。それぞれ病院や施設に入ったか、そうでなければ鬼籍の人になったのだ。
前田民子は数年前、民生委員を退任したが、時折フラリと文代宅を訪れることがあった。裏の森を眺め、小鳥の囀りと風の囁きに耳を傾け、とりとめもない茶飲み話に耽る。
――ポテちゃんが亡くなってから何年かしら? あのコは、確か老衰でしたね、と前田。
――はい。もう三年になります。幸せな大往生でした。と、文代。
――仲良しが次々と天に召されて、あなたも淋しくなりましたね。
――いいえ、あのヒトらは今も私と一緒です、と文代は森を眺めたまま、仄かに微笑した。
――あらま、どういうこと?
――私ら三人、いっつも手ェつないで空を飛んでいますよって……。
――えっ、空を飛ぶ? 前田は呆気に取られたように、目をパチクリさせた。
――はいな。(あれさ見ろ。なんとはァ、あづましい眺めだべな。海っこも山っこもこげにきれいに見えるだ。おらホにもひとっ飛びだで。ふうちゃんもポテ公も、ぜってぇに手を離しちゃなんねえだぞ。これからはどこまでも三人一緒だで)てやっさん、そない言うて――。
――ふむ。明け方、トロトロしてて妙にリアルな夢を見ることがあるけど、それかしらね。
――さあ……。文代は森を眺めたまま、またもや仄かな謎の微笑を浮かべた。
(おそらく彼女は)と、前田は思う。(今や夢と現実のあわいを、ユラユラと行き来する舟に揺られているのだろう)と。
それは、最晩年の人にだけ許された浄福のように思えるのだった。
〈終わり〉