やっさん(4)
- 作・深尾澄子(ふかお・すみこ)
- 1941年生まれ、大阪府出身。府立今宮高卒。元大阪府池田市役所職員。2021年「ノースアジア大文学賞」大学生・一般短編小説の部最優秀賞。兵庫県川西市住。
- 絵・今井恒一(いまい・こういち)
- 1949年秋田市生まれ。秋田商高卒。秋田美術作家協会会員。同市住。
先だって、新世界で大衆演劇を観た帰り「ソース二度漬けごめん」の断り書きのある串カツ屋に入った。食べて店を出た途端、激しい腹痛と下痢の発作に襲われた。そもそも潰瘍性大腸炎とは、肛門の括約筋などあってないも同然の、狂ったような下痢が頻発する病気である。立ち往生した文代に、やっさんはひどく狼狽した。
「そこで待ってろよ。トイレ捜してくるだで、動いちゃなんねえだぞ」
そして、道行く人に誰彼構わず「トイレどこにあるだか?」と訊き、奔走して天王寺公園の隅の公衆トイレを見つけた。
「漏らすといけねえ」
柄杓に汲んだ水を運ぶように、文代をソロリソロリと誘導し、
「この人病気だで。すまねえだが先に入らせてやってもらえねえだか」
と、順番待ちをしていた人全員に頭を下げて廻ったのである。
病気のお陰で、というと変だが、文代はやっさんの底抜けの献身をこのようにして何度も受け取ったのだった。
その時も彼は、他意のない笑いを浮かべてこう言った。
「でえじょうぶ(大丈夫)だで。S席でもトイレに近い座席買っただがら。歩げながったら、おら、おぶって連れて行ぐだがらよ」
(三)
俗に「旅は道連れ、世は情け」という。やっさんという相棒ができて、文代の日常は少しく変わった。病気への、のっぴきならぬ不安が激減した。急に夜中に動けなくなっても、電話一本でやっさんが駆けつけてくれる。日常の現実問題としては、困り抜いていた買い物とポテトの散歩も、嬉々として引き受けてくれた。
それだけではなかった。
彼には天性勤労を喜ぶ心が備わっているらしく、文代が一言頼むと、あっという間に、その仕事を片付けてしまった。吊戸棚を取り付け、ドアの蝶番を直し、波板を張り替え、ブロック塀を壊してフェンスに付け替えた。何をするにも実直で誠実だった。小柄だが、筋肉の締まった身体がキビキビと楽し気に動く。礼を言うと、照れ笑いをした。
「あんだに褒めてもらうべえとして」
そんなやっさんは、ポテトともすぐ仲良くなった。
「おらホでは、昔っから赤イヌを喰う習慣があるで。寒い時に鍋にすっとあったまるでよ」といいつつポテトを抱き上げ、「ンだども、このポテ公はちっこくて喰いでがねえだなあ」と、ニヤリとする。
そしてふと思いついたように、「とごろであんだ、入院中コイツはどうしてただか」と聞く。ペットホテルに預けたが、自分の入院費より高くついた、と答えると「まンだ入院するごとがありゃ、おらが面倒見てやるだがら、安心してけろ」と言うのであった。
そして彼は、地区の小学生のための『安全見守り隊』というボランティア活動に参加し、ポテトとともに、毎朝通学路の四辻に立った。
「ポテ公は、どこさ行っても人気者だで。わらしこもいっぺえ寄さるんだ。ポテちゃんめんこいって」
いつの間にか、散歩の距離もかなり伸ばしていた。
「今朝は四つ葉の裏から千種川を渡って、向こう岸のヤマト貸農園まで行ってきただ。いやあ、ポテ公が元気で元気で、川の中の飛び石をピョンピョン飛んでありぐ(歩く)だよ」
往復三キロ、ええ運動になっただ、と汗を拭きつつ上機嫌だった。
やっさんは、祭が好きだった。目をしばたたいて、こんなことを言った。
「おら、今まで全国のいろんな祭見ただが、まンず、博多のどんたくは最高だで。あれに、おめェを連れでいきてえ」
いつの間にか、文代への呼びかけの言葉が、〈あんだ〉から〈おめェ〉になっていた。
それが誘い水になったのか、翌日れいの中学生のような恥じらいの笑いを浮かべ、唐突に持ちかけた。
「おら、ゆんべ考げえただが、青森のねぶた祭、見に行かねだか。博多のどんたくは五月だで、もう終わっとるで」
季節はまさに土用に入る直前だった。オズオズした物言いとは裏腹に、フサフサした睫毛の奥の灰色の瞳には、強引な光があった。この提案は、島津亜矢のコンサート以上に、文代を驚かせた。

「泊まりがけの旅行? あなたと二人で?」
「だめだか?」
「そんなん、考えられへんわ」
「なしてだ?」
好きでもない人と、という言葉をかろうじて呑み込んだ。
「私、病気持ちやし、ポテトもおるし」
やっさんは、グイと身を乗り出した。
「病気のごとさは、おらが充分わがってるだで、でえじょうぶだ。おめェの体調でえいちにするだで。ポテ公はペットホテルさ預ければええでねだか。ゼニっこは、おらがぜぇんぶ出すだから」
えらい話になってきた。突然の思いつきにしては、カネがかかり過ぎる。盆の帰省客で賑わうこの季節、航空運賃もホテル・旅館の宿泊費もふだんの五割増しだ。ペットホテルだって一泊五千円もする。金に縁のなさげなやっさんが、またあのペラペラの財布から散財するのか。見ていて胸の痛む光景だ。
しかし、と文代は考えた。この機を逃せば恐らく一生、ねぶたを見ることはないだろう。
ねぶたを見て終わる一生。ねぶたを見ずに終わる一生。
どちらを選んでも、結局大勢に影響はあるまいが……。
「そないに誘うてくれるんやったら、行こうかな」
しぶしぶみたいに呟くと、やっさんは弾けるように破顔した。
「おう、やっとその気になってくれただか」
声のトーンまで変わった。
「その代わり、お願いがあんねん」
「なんだべ?」
「泊まる部屋は、別にしてほしいねんけど」
「はあっ? なにいうてるだ。別々の部屋さ寝るだか?」
「あかんか?」
「いやいや、ええだよ。そうするべえ」
一瞬妙な顔をしたが、折れた。そうと決まったら早速今から行って、空港のカウンターでチケットの手配をしてもらうべえと立ち上がった。いつも思い立ったら即断即行が、彼のやり方だった。
無風で、抜けるような青空だった。海岸線に砕け散る波が、白いレースの縁取りのように見える。高度一万メートル。成層圏から見下ろす風景に、文代は子どもじみた興奮を抑えきれない。
「うわっ、見て! 見て! 日本海や」
列島を俯瞰する視点は、まったくの非日常であった。病気のため、近所への外出にさえ怯えているゴミゴミした日常の、これが延長線上の景色だとは思えなかった。
やっさんも、ニコニコしている。
「あづましい(気持ちがいい)だな」
「すげえ。今度は日本アルプスや。上から見下ろすと、こんなふうに見えるんや」
「来てよがっただか?」
「うん」
「腹のあんべはどうだ?」
「大丈夫よ」
「喉っこ、乾かねえだか?」
「うん」
「脚っこだるぐなったら、ここさ乗せろよ」
膝のビニールカバンを、そっと文代の足元に置く。
今まで、父親以外の男から、こんなにこまごまと気遣われたことがあったろうか。別れた夫も職場の上司・同僚も、横暴で冷酷だった。やっさんの渋紙色の顔が、ふと慈母観音のように見えた。くぼんだ眼窩の奥の灰色の瞳が、悲しみを湛えてしっとりと温かい。あたかも、視界に入ったものすべてを包み込むようであった。だが次の瞬間、これが惚れた男との旅でないことに気づき、水をかけられたように興ざめな気持ちになった。
そんなことにはまるで気づかぬらしく、やっさんは楽し気に囁いた。
「ええだか。ねぶたの会場にへえったら、おめェに跳人(はねと)の格好をさせてやるだがらな。なァに、五千円もありゃ衣装一式借りられるべ」
跳人というのは、囃子に合わせてラッセラーの掛け声とともに山車の前後を練り歩く踊り手のことだ。当日は、観光客相手に跳人のコスプレをさせる店が、たくさん出るという。
そしてしみじみと、こう続けたのであった。
「まンずめごいだべな、ふうちゃんの跳人姿……」
鈍い慙愧の念が、文代の胸を噛んだ。彼が稀にみる純な男なのはわかる。だが、違うのだ……。知性とセンスの欠如とか、そんな大仰なことを言うつもりは毛頭ない。しかし、屈折した文代の抱く気難しい恋愛の哲学と、やっさんはどうしても相容れないのであった。