やっさん(1)
- 作・深尾澄子(ふかお・すみこ)
- 1941年生まれ、大阪府出身。府立今宮高卒。元大阪府池田市役所職員。2021年「ノースアジア大文学賞」大学生・一般短編小説の部最優秀賞。兵庫県川西市住。
- 絵・今井恒一(いまい・こういち)
- 1949年秋田市生まれ。秋田商高卒。秋田美術作家協会会員。同市住。
(一)
須藤文代宅の玄関チャイムが鳴ったのは、ある溽暑の昼下がりであった。油蝉が喧しく鳴きしきっている。
あるじより先に玄関に飛び出したポテトが、客を見上げて二声吠えた。しかし敵意はなく、抱き上げた文代の腕の中で体を柔らかくしている。
差し出された名刺には、『民生委員 前田民子』とあった。
「あら、かわいらしいワンちゃん。いくつですか」
前田は、ポテトを見た人が言う決まり文句を口にした。
「二歳? 元気盛りね。ポメラニアンかしら」
この人の訪問を受ける理由は、ほぼ見当がついた。
先日、市の福祉課にヘルパー依頼の件で電話をした。おそらく、そのことであろう。
「退院直後の一人暮らしなので、一時的にでも助けて頂けないかと相談したのですが、ダメでした。私がまだ六十二歳で、障害者の認定も受けていないからとか。よほどお困りなら、自費でお手伝いさんを雇われてはどうですか、と言われて――」
「あらま、それはちょっとねえ……」
前田はいったん言葉を呑み込んだが、続いてヘルパー派遣の条件は高齢者福祉なら六十五歳以上、障害者福祉なら手帳所持者という規則があるので、役所の担当者も困惑したのだろう、それで自分の方に訪問の要請をしてきたのだ、と穏やかな口調で説明した。
グレイヘアに薄化粧。良い年の取り方をしたらしい人だ、と文代はそれとなく観察する。
「潰瘍性大腸炎という難病で、S病院に四十日間入院されていたのですね」
「はい。退院して一週間です。障害かどうかの診断は、次回の診察日に出ます」
「毎日のお買い物とかは?」
「それに一番困っています」
覚えず溜息が出た。
病院からは、外出時に紙オムツ着用を指示されていたが、勝気な文代は、(まっぴらご免や)と開き直っていた。しかし、内心は氷の上を歩くようにビクビクものだった。
退職と同時に越してきたここ北摂メジロが丘は、俗に〈大阪のチベット〉と揶揄される半端な住宅地である。購入価格の廉かった分、日常生活にはすこぶる不便だ。駅やスーパーのある商業地へは一キロ。途中、急勾配の坂があり老人や病人には、過酷な地形である。
ふだんなら片道徒歩十五分だが、体力の落ちた今は、かれこれ三十分はかかる。しかも、買い物の荷物を持って坂を登ることができず、サービスカウンターでタクシーを呼んで貰い、ほうほうのていで帰途に就くことが重なった。屈辱的だが、便漏れも何度か経験した。
都度、生存の限界まで追い詰められたような切迫感を覚えた。
「えーと、ご家族は、隣町にお住まいの娘さんと遠隔地の息子さんですね」と、前田は台帖に目を落とす。「この方たちに援助はお願いできないのですか」
「それ、役所の人にも訊かれましたけど。娘は初めての子を出産したばかり、息子は全国転勤族で、何の助けにもなりません」
「なるほど」
前田は、チラと掃き出し窓の外に広がるヒノキ林に視線を泳がせる。
「福祉制度の谷間に落ちられたといいますか……」
まさにそんな感じだった。が、それだけではなく、医療と福祉の繋ぎ目からも零れ落ちていたのだ。
長期の絶食と点滴で、何とか下痢と下血は収まったものの、本復にはまだ程遠い時期から、病院側は退院を仄めかすようになった。この体調で、あのエリアの夏をたった一人で乗り越える自信はない。
(せめて秋口まで置いてもらえないか)と頼み込んだ。すると、(ここは療養型の病院ではない)(ホテル代わりにするな)と突っぱねられただけではなく、懇願の調子が度外れて執拗だったせいか、(認知症の疑いがあるから、家族を呼べ)とまで、真顔で言われたのだった。
「そら、ベッド回転させな病院の儲けにならんのはわかりますが――」
憤懣のこもった文代の言葉に、一瞬前田は(あらま……)と小さく呟いたが、ふと質問の方向を変えた。
「それで――今までどんなお仕事を?」
「A市で地方公務員として、福祉の現場業務に携わっていました」
かつてはサービスを提供する側だったのが、今度は受ける側になった。皮肉な気がする。
「まあ、浮世は持ち回り、と言いますからね。何かありましたらお電話下さい」と、如才ない微笑を浮かべた。来客の動静に敏感なポテトが文代の腕の中で身を起こし、クウと喉を鳴らす。その頭に軽く触れ「また来ます」と、前田は帰って行った。

ポテトの散歩に出た。スズムシのすだくエノコロ草の草むらに鼻面を突っ込むポテトを、強く引っ張る。リードがピンと張った。
「こっちへおいで!」
苛立った声をあげる。この季節、草むらにはノミやダニがいる。ただでさえ綱渡りのような危うい日常に、これ以上ポテトのシャンプーなど、余計な雑用を増やしたくなかった。
「好きなオンナのコのオシッコの臭いでも?」
という声に振り向くと、黒いラブラドールを連れた同年配の女性だった。
「イヌはすぐこれや。ところでおたく、どこぞ体お悪いの」
引っ越しの際、挨拶回りをしたから顔は知っていた。近所、それも並びの一角の主婦だ。
「なんや最近、えらいやせはったみたいやから気になって」
確かに、体重は急激に十キロ減った。三十五キロを切った時、周囲の景色は青みがかったグレイに見え、床を踏みしめると、スポンジのようにどこまでもめり込んでいく感じがした。
イヌの散歩で朝晩出会ううちに、文代はそのトミ子という隣人に次第に気を許すようになった。民生委員の前田は別格として、近隣のよしみで初めて自分に声をかけてくれた、地獄で仏のような人ではないか、と思えた。
トミ子に誘われて、地域の老人会とカラオケ・グループに入会を決めた。
メジロが丘住民としての正式デビューだ。今後、誰にいつどこで世話になるかわからない。とにかく、一日も早く地域に溶け込み、皆に仲間として受け入れられたかった。
幸い、公民館は自宅からごく近く―平坦な道を百メートルほどのところにあった。
そこで年四回持たれる老人会は、老人たちの親睦と食事の会だとか。そして、中の歌好きの面々が集まって立ち上げたのがカラオケ・グループであるらしい。
元々、文代は演歌には興味がなかった。職場の忘年会などでも、長年にわたり一滴も飲まず一曲も歌わずの野暮天で過ごしてきた。だが、それも、ここまで来ればそろそろ棚上げにしたい……。
毎週土曜日がカラオケ・グループの練習日だった。
久々の人交わりに、文代は緊張した。幸いにもこのところ、騙し騙しの小康状態が続いていたこともあり、軽い期待さえ抱いていた。
しかし、入会第一日目にして、別世界を覗いたようなショックを覚え、凝然となった。
館内の会議室に十数人のメンバーが集まり、一隅にしつらえられたカラオケ・セットのモニターを眺めて、順番に一曲ずつ歌うのだが、まず、その妙に既視感のある光景に呑まれた。メンバーの醸し出す雰囲気が、以前どこかで見た光景に酷似している。
よくよく記憶を辿ると、それは昭和のシュールな漫画家つげ義春の作品にしばしば点景として、あるいは記号として登場する〈念仏衆〉、いわゆる姐さん被りの老婆の集団なのであった。一瞬、タイムスリップしたかと怪しんだ。
一応皆、数珠の代わりにマイクを握り、経本の代わりにモニターを見ながら歌っているのだが、それにしても歌がひど過ぎた。本人が楽しかったらいいのでは?などという呑気な段階ではなく、聴くのに苦痛を覚えた。
(こらぁいったいなんや?)と、文代は頭を抱えた。
ご苦労なことに、文代は興味のない演歌でも、いざ正面切って向き合うと、ウマイ、マズいの判定をせずにいられないという、ばかばかしいほど律儀な聴き手であった。
彼女ら念仏衆の歌は、音階無視などは序の口、途中で高音部の声が出なくなると勝手に一オクターブ転調したり、中には強引に作詞作曲までする剛の者もいた。
その上、細いヨロヨロの震え声は、耳ざわりこの上ない。いわゆる〈ちりめん声〉というもので、年齢による体力の低下が、如実に声帯に反映しているのだ。しかも、当人らはそれをいささかも自覚せず、むしろ得々としている。その客観性のなさが、ことのほか痛かった。
独特のカオスであった。一歩離れて見ると滑稽だが、わが身に当てはめると恐怖でしかない。
そんな不遜な思いがカオに表れていたのか、順番が廻って文代がたった一つの持ち歌『津軽海峡・冬景色』を歌い出すと、最初のワンフレーズで、ほとんどの人が露骨に(ヤレヤレ)という表情になった。途中から、あちこちで私語が始まった。