ヴェネツィア、二つの絵画を味わう(秋田大・佐々木千佳) あふれる500年前の熱気

 ≪モナ・リザ≫が展示されているルーヴル美術館の一室には、名画を一目見ようと連日世界中から人々が訪れる。それと向かい合う壁側にあってひときわ目を引くのは、幅10メートルもの巨大なカンヴァス画である。ヴェネツィアで活動した画家パオロ・ヴェロネーゼ(1528~88年)の≪カナの婚礼≫(1563年)だ。

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 この作品は、カナという村(現在のイスラエル北部)での婚礼の昼餐(ちゅうさん)にキリストと聖母が招かれた際の出来事を描いている。宴の途中、ぶどう酒が尽きたことを伝え聞いたキリストが水瓶(みずがめ)に水を注(つ)がせると、それらは全てぶどう酒に変化したという奇蹟譚(きせきたん)だ。

 キリスト教美術の中で食事や宴会の場面は、さまざまな象徴と関連し、修道院の食堂を飾るのにふさわしいとされた。磔刑(たっけい)前夜に弟子と共にした「最後の晩餐」における、キリストの聖体としてのパンとぶどう酒の食事(聖体の制定)が、聖餐式(ミサ)の原型であることに因(ちな)むからだ。≪カナの婚礼≫もヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院内の大食堂壁面を飾るために注文された。

 しかし画家はこの場面を、静謐(せいひつ)な宗教場面である聖餐というよりもむしろ、古代風の建築を舞台に貴族や聖職者、楽師ら百人超の人物が集う壮麗な饗宴(きょうえん)場面に変貌させた。キリストと聖母が着席する食卓中央では今まさに奇跡が起こされている。画面手前右の水瓶からはぶどう酒が注がれ、手前左では使用人がぶどう酒を左端の新郎新婦の席に届けている。画面上半分のテラス後方では、使用人がせわしなく食事の準備をしているが、ここで切り分けられている肉には、聖餐式での犠牲という宗教的暗喩が込められている。

 食卓左奥の女性は、デザートの砂糖漬(キャンディ)を刺すフォークを口にくわえている(拡大図参照)。14世紀頃イタリアに登場したフォークは貴重品で、豪華な宴席で使用されるようになった。画面左端の飾り皿の陳列は、家の主が実際に披露していたものとされる。ヴェネツィア共和国は奢侈(しゃし)禁止令を頻繁に発令していたが、服飾やグラスなどの描写からそれが順守されていないことがうかがわれる。

 さらに柱の隙間などの細部には、子供や物乞い、動物の姿が描かれている。すべての人にキリストの奇跡が行き渡ることを示すだけではなく、共和国による実際の福祉政策も暗示していよう。

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ヴェロネーゼ≪レヴィ家の饗宴≫1573年(ヴェネツィア、アカデミア美術館蔵)

 ヴェロネーゼは10年後、もう一つの祝宴画の代表作≪レヴィ家の饗宴≫を制作した。当初依頼された主題は「最後の晩餐」で、やはりヴェネツィアの修道院の食堂に飾るためであった。しかし、酔った人々や画面左の階段にいる鼻血を出す給仕らの、聖書に記述のないモチーフが宗教上の適切さを欠くとして、異端審問に召喚されてしまう。庶民的で賑々(にぎにぎ)しい絵画世界が、明快な教義図解を求めた対抗宗教改革の潮流にあって不敬とみなされたのだ。

 最終的には、キリストが収税人レヴィの家で盛大な宴会に列席したという福音書の銘文を画中に挿入し、題名を現在のものに変更することで決着したが、画家が問題視された箇所を修正することはなかった。興味深いことに、画家は召喚された尋問の中で「注文は、私が良いと思うように装飾するようにというもの」だと陳述したという。こうした演出を画家自身が裁量できる創造の権利と捉え、権威に屈することはなかったのだ。

 東方貿易による富と流行文化を反映した祝宴表現は、当時の人々の生(せい)の輝きを鮮明に留(とど)めたものであった。そしてこの活気に満ちた様(さま)が芸術家の創作意欲を刺激したことは想像に難くない。人と人を結びつける場を一つのスペクタクルとして提示するという類いまれなる創作によって、画家は「集」の悦(よろこ)びに満ちあふれた人々の姿を示してみせたのだった。

 観(み)る者は、画家が構築した現実と虚構を行き来するかのような祝祭的空間を逍遥(しょうよう)し、異質の時間に身を委ねることができたのではないか。我々もまた約五百年前の都市が持っていたエネルギーの一端を感じ取ることができるだろう。

〈本連載は今回で終わります〉

【ささき・ちか】1974年山形市生まれ。秋田大学教育文化学部准教授(近世イタリア美術史)。編著に『ペストの古今東西―感染の恐怖、終息への祈り』、共著に『聴覚のイコノグラフィア:楽器・音楽家・音楽文化』)など。

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