集う人々・世界×文化(10)百年前の「祝宴の時代」と現代(辻野稔哉)

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 フランスの「ベル・エポック」を「祝宴の時代」と呼んだのは米国の仏文化研究者ロジャー・シャタックだった(The Banquet Years, 1958)。フランスでは、諸説あるものの、19世紀から20世紀への変わり目、1900年の前後15年ずつを合わせた30年を、後の時代から振り返って「ベル・エポック(美しき時代)」と呼び習わしている。この時代には、文化芸術のみならず科学技術においても、さまざまな「近代」が表面化し、1900年のパリでは5度目の万国博覧会がオリンピックと同時に開催された。

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 詩人・評論家のポール・ヴァレリーはこの時代を振り返って、「精神的産物の極端なまでの多様さ、相互に矛盾する衝動の並存は、あの時代のヨーロッパの首都の夜の常軌を逸した照明を思わせるものだった」(恒川邦夫訳)と1919年に発表した「精神の危機」に書いている。

 文学の世界に限ってみても多種多様な小雑誌が登場し、編集部主催の集いも盛んであった。中でも『ラ・プリュム La Plume』誌が定期的に開いていた夕べの会(ソワレ)は、若手の登竜門として有名となる。若き詩人や作家たちは、自作を持ち寄っては発表し、語り合った。そうした切磋琢磨(せっさたくま)を通して、やがて彼らが有力な書き手となり、あるいは大御所たちとの宴席にも招待されるようになって、名を上げていったのである。

 そのようにして有名になった詩人の一人がギョーム・アポリネールである。ピカソの友人としても知られるこの詩人は、モンマルトルの芸術家たちが集ったあの「洗濯船」の一員でもある。彼らがまだ無名であったアンリ・ルソーのために開いた祝宴は、古き良きパリのボヘミアンたちの伝説となっている。

 パリでは仲間同士でカフェに集い、様々な集会や宴を開く文化が古くから根付いているが、「ベル・エポック」の時代は、そうした文化がひときわ多彩な姿を見せたのであった。後年、アポリネールは、カフェ・ド・フロールで自らの雑誌を立ち上げるが、その名を『ソワレ・ド・パリ(パリの夕べ)』としたことがまさに時代を象徴している。

 無論、「ベル・エポック」という呼称は、後の世につけられたものである。歴史学者ドミニク・カリファによれば、この呼び名の定着は1940年代のナチス・ドイツ占領下にプロパガンダとして作られたラジオ番組「ああ! ラ・ベル・エポック!」が実質的なきっかけとみられている。1900年代のシャンソンを中心に編成されたこの番組は、占領者にとってはパリの通俗的なイメージとして消費しやすく、非占領者にとっては傷ついた国家像を慰撫(いぶ)するものとして成功を収めたのだという。

 従って、ヴァレリーが最初の世界大戦とインフルエンザ・パンデミックの直後に、異種混交性や矛盾の併存をすでに回顧的に語っていること自体が意義深いが、彼はさらにその後、1934年の「独裁について」という評論において、「〈〈大量生産〉〉の行き過ぎなどによって、人々はある種の組織で作られる製品の様に、趣味や娯楽に至るまで、互いに似たりよったりの存在に還元されてしまった」(恒川訳)と述べている。

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 結局「ベル・エポック」とはヴァレリーが危惧を抱きつつ書いている、均質化の果てのポピュリズム的イメージに過ぎないのであろう。一方で、こうした経緯をたどることによって、「ベル・エポック」という言葉の流布以前にヴァレリーが感じ取っていたもの―「あの時代」の「宴」が持っていた多様性に対する喪失感―は、失われた時代への屈折した憧れと、今まさに失いつつあるものへの危機意識を我々にももたらさないだろうか。

 「ベル・エポック」は決して単なる古き良き時代などではなく、常に問い直し続けるべき「過去への眼差(まなざ)し」の問題をめぐる、危うい「虚構」なのである。

【つじの・としや】1963年長崎県高島町生まれ。秋田大学教育文化学部准教授(フランス文学・文化)。主な論文に「アポリネールの散文作品における『映画と蓄音機』をめぐって」、「アニエス・ヴァルダとその晩年の映画制作法―『百一夜』から『落穂拾い』へ」など。

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