集う人々・世界×文化(7)秋田藩における清酒の広まり(渡辺英夫)

 いまを去る400年前、当時の平均気温は今より低く、秋田に移ったばかりの常陸武士たちは、分厚く凍る水堀に城の備えを案じたに違いない。そのころ、重臣梅津政景(うめづ・まさかげ)は、秋田の領民が盛んに飲酒するさまを知り、百姓を慰労し、冬の寒さをしのぐのに酒はなくてはならぬものと日記に記し、百姓たちの飲酒を肯定的に受け止めていた。そのときの酒は言うまでもなく濁酒(にごりざけ)で、酒は飲むのではなく「たべる」ものだった。

 その後、代を重ねると、盛んな飲酒の慣行から秋田藩は他藩に例を見ない独自策を打ち出すことになる。醸造量に応じて酒造業者に営業税を課したのは当然だが、「麹室役(こうじむろやく)」といって酒麹を扱う麹屋にまで課税したのである。領民の濁酒造りは広くおこなわれ、城下町久保田や武士が集住する小城下町に限らず、麹屋は領内あちこちにあったから、これはかなり有効な財源となった。

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 初代藩主佐竹義宣(よしのぶ)は、幕府役人の接待用に家臣を上方(かみがた)に派遣し南都諸白(なんともろはく)とよばれた高級な清酒を国許(くにもと)秋田に取り寄せさせている。また、政景など上級武士たちも酒を常備し、上士相互に酒を饗応(きょうおう)し合っていた。江戸時代、酒屋は販売店ではなく醸造業者のことで、上級武士たちは酒屋から樽(たる)入りの酒を取り寄せ、接待用だけでなくハレの儀式などには陪臣たちにも振る舞っていた。だが、江戸時代になってしばらくは、おそらくそれは濁酒で、まして一般の武士が清酒を普通に飲めるようになるのはかなり後になってからだった。

 まず、参勤交代で江戸に上った武士たちは江戸で味わった清酒の味が忘れられず、国許でも飲めないものかと考える。するとその要求を受けた秋田の商人は上方から清酒を仕入れ、地元の酒屋も清酒造りに励んでいく。やがて18世紀前半、享保の頃までには醸造技術が向上し、秋田でも清酒を造れるようになり、久保田城下をはじめ領内の小城下町にも清酒の蔵元が増えていった。

 宿場町でも城下町でも、客を泊める宿屋では酒を提供していたから、その酒も次第に清酒へと切り替わっていった。だが、城下に暮らす武士が集って宿屋に出かけ、にわかに飲酒したとは考えがたい。儒教倫理に照らし封建的価値観から藩士が集まって城下の町人町で飲酒するようになるには今しばらくの時間が必要だった。18世紀後半になっても上級武家に仕える奉公人たちは、生まれ育ちが百姓だったから自分たちで濁酒を造って飲んでいたし、一般の藩士もおそらくはまだ濁酒を自分の家で愛飲していたのではないか。

 その一方、上級藩士は酒屋から清酒を取り寄せるようになる。それは一斗(18リットル)か四斗(72リットル)入りの樽酒で、一般の藩士にはたやすく買える値段ではなかったから、どうしても清酒を飲みたくなると、酒屋に行ってその場で飲ませろと迫るしかなかった。18世紀末、天明・寛政の頃には、藩が禁じたにもかかわらず、夕暮れ時に城下の酒屋を訪れた武士が「飲ませろ」と迫って悶着(もんちゃく)となる事件が問題になっている。

 19世紀に入り文化年間になると、家督を継いだ藩士が初出仕といって、初めて職に就いたり、役代わりして別の職に異動したりすると、職場の上司や同僚の士たちを八橋の茶屋に招いて接待することが流行(はや)っている。城下町を憚(はばか)り、そこから少し離れた八橋茶屋に接待の場を設け、酒宴に興じたとみられる。こうした藩士たちの飲酒は、藩指導部から見れば風紀の乱れでしかなかったから、禁止令が出されたのは当然だった。だが、この禁令が繰り返し出されたところを見ると、接待の酒が止(や)むことはなかったらしい。

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 清酒を飲む機会が増えると、家でもそれを飲みたいという要求が高まってくる。それに応えたのが一升徳利(とっくり)だった。洗えば何度でも使える徳利は少量の量り売りに便利で、これが普及すると清酒を買って帰り、家でも飲めるようになる。そして、最初は他領から仕入れていた徳利も、やがて秋田でも焼けるようになるが、それは幕末近くになってからだった。

 しかしその頃になっても領民や奉公人たちが飲んでいたのは相変わらず濁酒で、秋田に清酒が広まるのは思いのほか遅い。秋田の現実は、時代劇とは少し様子が違っていた。

【わたなべ・ひでお】1956年栃木県小山市生まれ。秋田大学名誉教授(日本近世史)。主な著作に『秋田県の歴史』(共著)、『横手市史 通史編 近世』、編著『秋田の近世近代』(以上編著)、『シリーズ藩物語 秋田藩』(単著)など。

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