集う人々・世界×文化(5)故郷喪失を小説と唱歌にみる(山﨑義光)

 1914(大正3)年夏、夏目漱石『こころ』が新聞連載(4月20日~8月11日)を終えようとしていた。その頃、ヨーロッパで戦争が始まった。第1次世界大戦である。日本も宣戦布告、秋にはドイツの租借地、中国の青島(チンタオ)を攻略した。

 その年の12月18日、東京駅の開業祝賀会が開かれた。駅舎の中央から伸びる道は皇居に向かう。周辺には企業、日本銀行、官庁などが集まる。国土を中央と地方に構造化した鉄道網の中心駅であるとともに、国家の中央を象徴し偉容を誇る建築物の一つだった。

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 祝賀会は「凱旋(がいせん)将軍歓迎会」とともに開催された。『東京駅開業祝賀会及(および)凱旋将軍歓迎会報告書』(国立国会図書館蔵)にはこの時の概要が記録され、東京市長はじめ渋沢栄一ら財界人、陸海軍の将軍が並んだ写真が付されている。太神楽(だいかぐら)、仁和賀(にわか)、剣舞(けんばい)、活動写真、素人相撲などの余興もあり、多くの大衆が集まった賑(にぎ)やかなお祭りだったことがうかがえる。

 当日駅で歓迎されたのは青島攻略を指揮した神尾光臣(かみおみつおみ)中将である。有島武郎の妻安子の父だった。このとき安子は肺結核を発症していた。三人の息子たちに感染しないよう療養し、会えないまま1916年に27歳の若さで亡くなった。長男(のちに映画俳優となった森雅之)は満5歳だった。有島はこの頃のことを息子たちへ向けた小説「小さき者へ」(18年)に書いた。有島も23年に女性記者と心中し、息子たちは幼くして両親を失った。

 国土に張り巡らされた鉄道は人々の移動を活発化していた。1914年は文部省唱歌「故郷(ふるさと)」が歌われるようになった年でもある。「兎追いしかの山/小鮒釣りしかの川」「志を果(はた)して/いつの日にか帰らん」と、生まれ育った地を離れた人の立場で里山の情景を歌い、人びとの郷愁をつかんでその後長く親しまれた。

 故郷をモチーフにした歌はそれまでにも数多くあったが、唱歌「故郷」は特定のどこということのない抽象的で典型的な情景の詩句によって国民的な支持をえた。「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そしてかなしく歌ふもの」の詩句で知られる室生犀星(むろうさいせい)「小景異情 その二」も1913年に発表されていた。故郷は、遠く離れた場所で現実の不如意や孤独、喪失の哀感に裏打ちされた「夢」の「忘れがたき」場所としてこそ人びとの心を捉えた。

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 漱石の小説『こころ』は、おもな登場人物たちが地方の家郷から東京へ出ること帰ることを物語展開の重要な要素とする。冒頭、大学生の「私」が鎌倉の海岸でのちに「先生」と呼ぶ人物と出会う。私は先生に私淑し交流を深める中で先生の過去を訊(き)き出すにいたる。私が大学を卒業し地方の生家へ戻って危篤の父の枕頭にいたとき、先生から遺書らしき手紙を受けとる。迷った末に飛び乗った東京行き列車の中で手紙を読んだ。そこには先生とKが棄郷した経緯、お嬢さんへの恋、Kの信条と告白そして自決、その後「黒い影」を抱えて生きてきたことが記されていた。Kも先生も、国のためでも家のためでもない、個人の誠実で公正な生き方を、故郷を失った寄る辺なき孤独な「こころ」に準拠して堅持し蹉跌(さてつ)した人物として描かれた。

 戦勝記念と重なった東京駅開業祝賀会は大日本帝国の歴史が新たな段階に入る節目となった。民本主義が唱えられ大正デモクラシーの機運が高まって大衆・市民社会への移行が進み、関東大震災(23年)後にはモダン都市の大衆文化が華開く。しかし世界恐慌後の1930年代には対外関係の悪化から、満州事変(31年)を皮切りに十五年戦争に入る。大衆は国民として総動員され、日中戦争、太平洋戦争、敗戦へ至った。

 現在の目から見れば、東京駅開業と凱旋の「祝賀」はその後の日本の大きな蹉跌の始まりだったように思える。1914年に東京駅で鳴りひびいた汽笛は、寄る辺なき個の自律と孤独、他者への信頼と不信が交錯する時代の始まりの合図でもあった。20世紀の歴史を省みて、21世紀の現在は覇権や繁栄よりも持続可能性が、個の自律とともに他者との協調と支え合いの方途が問われている。

【やまざき・よしみつ】1969年北海道千歳市生まれ。秋田大学教育文化学部准教授(日本近代文学)。主な著作に「三島由紀夫の方法としての写真と映画」(『三島由紀夫研究22』)、「報道の時代のなかの島木健作『満洲紀行』」(共著『大正・昭和期における東北の写真文化』)など。

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