新あきたよもやま:秋田美人誕生(6)~最初の「ミス秋田」

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川反最盛期


川反の全盛期について田口松圃は「大正はじめから12年ころまで」と述べている。(※1)「軒に芸者の名前を書いた軒灯が並び、三味線の音がゆるやかに流れてくる中を日本髪に和服姿のあでやかな芸者たちが行きかった時代」(※2)である。

大正8年(1919)12月10日の秋田魁新報には『二倍になった川端(川反)芸者家、大小合わせて百四十一名』と題した記事が掲載されている。この年は「儲けさるものは商人の資格なしというような素晴らしき好況」であり、「米騰成金を主とし前期の商家労働者どもが料理屋入りが頻々(ひんひん)となりしより、川端芸者の売れ行きも繁盛」していた。明治43年には13軒だった芸者置屋は大正5年には27軒、そしてこの年(大正8年)には35軒にまで増えた。当時の芸者は97名、舞妓は47名の合計141名であったという。

大正14年9月21日の秋田魁新報に掲載された川反芸者の「稼高番付」



当時はどんな職業の客が多かったのだろうか。「川反むかし話」(『月刊秋田百点2号』、昭和33年、秋田百点編集室)では原野ヒサと和賀キツがこう振り返っている。

和賀「やはり地主、県会議員が多かったようです」
原野「県会が開かれると、一カ月前から料理屋に。寝泊りで料理屋から県庁通いし、私達芸者は県庁の正門まで送り迎えしたものです」
和賀「議会から帰ると取り巻き連、今でいう陣笠連中でしょう、二十人も三十人もの多人数で朝まで大騒ぎ(中略)しかし良く身体が続いたものです。」

政治家は県議だけでなく貴族院議員の土田万助、衆議院議員の成田直衛といった国会議員たちも「川反に居をしめていた」(※3)というほどであった。夜の政治の舞台と化した川反では芸者や料理屋が当時の二大政党であった政友会、憲政会によって色分けされた。

当時の政治家には地主、資本家が多かった。大正時代は第一次世界大戦による好景気で物価が高騰し、富裕層は大きな利益を得ることになる。一方、農村部では大正2年(1913)の凶作以降、多くの農民が地主に土地を売り、小作農となる。物価高騰は貧しい人々の生活をさらに苦しくし、「口減らし」のために売られた娘たちが芸者や娼妓となった。

花柳界の繁栄を後押しした大きな要因の一つは極端な貧富の差である。貧困が立場の弱い女性たちを花街や遊廓へと送り出し、富める男たちの夜を彩った。こうして「虚実ないまぜ」な光と影の世界が生まれたのだ。

※1 「川反・昔物語」秋田魁新報 昭和26年1月21日
※2 『秋田の明治百年』毎日新聞秋田支局 昭和44年
※3 (※1)に同じ

ミスコンことはじめ


「ミスコン」と俗に呼ばれる美人コンテストは賛否両論ありながら、今でも世界中で開催されている。日本で最初のミスコンは明治24年(1891)、東京浅草の凌雲閣(浅草十二階)で美人芸者の写真を展示して競った「百美人」が嚆矢とされる。その後、各地の新聞社が販売部数を伸ばすために、地域の美人ナンバーワンを決めるコンテストを紙上で行った。当時のミスコンには一般のいわゆる「素人」の女性がエントリーすることは少なく、芸者や酌婦など「玄人」の女性を対象にしたものが多かった。

現在確認できる秋田県で最初のミスコンは明治42年、秋田市の新聞社・東北公論が主催した「銘酒と美人」である。ここで一位となったのは川反芸者・柳家の吉代であった。

『秋田花模様』より、右が「ミス秋田」第一号となった吉代、左が原野ヒサ


吉代は明治27年(1894)生まれ。現役の川反芸者である若勇こと浅利京子さんによれば、吉代の実家である寺門家は江戸時代に佐竹氏とともに水戸から秋田に移住したと伝わる士族であったという。吉代の妹である若吉(本名・寺門操)は浅利さんにとっての師匠であり、育ての「おかあさん」だ。

『秋田花模様』(明治39年)には当時12歳の吉代が紹介されており、その文面からは川反花柳界の看板芸者になることを期待されていたことが分かる。

「女秀才のこの子が前途を、さあさ皆んなでことほぎまをせ、十二にませた利発振り、(中略)もし夫れ心をこめて教え込んだなら、スックリ天女、舞姿あっぱれ川端にての呼び妓とならんことを、今からめでたきこどもなり」

その3年後、晴れてミス秋田美人第一号になった吉代。しかし、その結果には裏事情があったようだ。洞城利喜は「無論(吉代が)綺麗であったからには相違ないが」と前置きした上で、「実父寺門運治さんはその社(東北公論)の工長であり、そのまた親分の木村末治というおっかないおじさんが魁新報の職長で、出来たての電話でその日の形勢を通知してきたので、魁ではご贔屓の柳家とばかりに大いに力を入れた。(中略)投票を別に大量印刷して売るのが目的であるから金さえあれば上位入賞は容易だったわけだ」と述懐している。(※4)

また、大曲の新聞人であった田口松圃も「吉代の父親が当時魁にいたので安藤和風先生が一生懸命かかった」と、投票結果の背景に秋田魁新報の安藤和風の存在があったことを示唆している。(※5)コンテストの裏に地元マスコミと川反の戦略が見え隠れする。

明治後期から大正時代にかけて新聞産業は飛躍的に伸び、秋田市内だけでも「秋田魁新報」「秋田時事新報」「東北公論」(後に秋田新聞)といった日刊紙が刊行されていた。地方新聞が美人を売り出して販路を広げ、美人は新聞に出ることにより名を高める。メディアと花柳界、両者の利害関係が一致したところでミスコンは生まれたのだ。

※4 『あきたよもやま』洞城利喜 あきたよもやま刊行会 昭和51年
※5 (※1)に同じ

秋田美人起源論


明治、大正の頃、美人といえばその多くが花柳界か社交界の女性たちであった。庶民の女性がおしゃれをして人前に出る機会が少なかった時代、芸者や名家の夫人、令嬢たちの姿はひときわ麗しく映っただろう。

アサヒグラフ第12巻第2号より(昭和4年1月9日)



しかし秋田の場合は、花柳界、社交界に限らず一般庶民まで美人が多い県として知られていた。明治42年(1909)、秋田県内を10日間旅した東京の新聞社の記者は「秋田は越後と同系の北国美人系に属すると称せられる。成る程美人が多い。色白で面長で、鼻の角度がすこぶる整頓している」と秋田の女性を讃えた。(※6)

また、明治44年に発表された谷崎潤一郎の小説・『飈風』には秋田市の情景を記した次のような一節がある。

「煙草を売る店先の娘や、宿屋の帳場に坐っている内儀や、こう云う素人の女までが、凡べて美人国の名に負かぬあでやかさとなつかしさを以て目に映った」

どうして秋田には美人が多いのか。その理由や起源において、現代にいたるまで様々な人物がそれぞれの見地から考察している。秋田市出身の評論家・青柳有美はそのパイオニアだ。青柳は「芸者は韻文なり、女郎は散文なり」といった独特の美意識で女性を表現した異色の文化人である。

青柳は異なる種族同士の雑婚(混血)が「美人系を産する」と論じた。大正10年(1921)に書かれた「日本美人系の配布」(※7)によると、まず、「津軽、秋田、新潟等の裏日本地方に美人が多い事は、旅行者ないし視察者のほとんど総てにおいて承認せらるるところ」とし、その「裏日本美人系」の形成は中央アジアの「ツングース族と称せらるウラルアルタイ種族」をルーツとする出雲族と「南島からやってきたアリアン種族」をルーツとするアイヌ族が混血した結果なのだという。大言壮語な話であるが、民族学、地理学的な視点で秋田美人の起源に迫った点では注目される。

『日本一第7巻第1号』(大正10年)より、青柳有美の「日本美人系」説


それから12年後の昭和8年(1933)、青柳は雑誌『秋田』(※8)に「秋田美人を一応けなす」と題したエッセイを寄稿している。その中で青柳は「今日、秋田には美人というものが殆ど全く一人も無いと言ってよかろう」と苦言を呈し、「優れた才智の持主でなければ其他の条件において、いかに美人らしい趣があっても之を称して美人とは言い得られぬ」と説明。その点、秋田の女は「薄ぼんやり」としていて、「色が白いからとの一条件ぐらいで美人のお仲間入りをなし得られたのやも知れぬが、生き馬の目を抜く巧みなる人間の満ちている1933年の世界では、到底美人を以て目せられ得る資格は無い」という。

毒舌家の青柳らしい型破りな論説であるが、外見だけで女性を評価することへの批判ともとらえられる。今になれば雲を掴むような「美人起源論」よりも、説得力があるのかもしれない。

※6 『知られたる秋田』滝沢武 明治42年
※7 『日本一第7巻第1号・美人研究号』大日本文華会社 大正10年
※8 『秋田・創刊号』秋田県人雑誌社 昭和8年


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