旅と移動・世界×文化(13)ウィーンにみる多様性と統一(中村寿)

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 旅し、移動する人々―流浪の民―筆者はユダヤ人に想(おも)いをはせた。それに「多様性における統一」を重ね合わせたい。

 「多様性と統一」は東京オリパラ2020を機に注目されたように、超大国や国際間の関心事を思い起こさせるが、小さな国の小さな集団にもこれは当てはまる。

 オーストリア。オーストリア語はない。ドイツ語が話される。北海道とおよそ同じ面積に約890万人が居住する。人口規模は現代ドイツのおよそ10分の1。同じ言葉を使っているにもかかわらず、国が異なる理由を説明するためには、過去を振り返らなければならない。背景には、ドイツ人によるドイツ帝国(1871年成立)と多民族連合のオーストリア=ハンガリー帝国(1867年成立、以下・二重帝国)がある。

 二重帝国期には、ドイツ語、チェコ語、ポーランド語、ルテニア語(ウクライナ語)、スロヴェニア語以下、11の言葉が話されていた(公用語は制定されず、役所文書は慣習的にドイツ語)。新技術の鉄道を通じて、ウィーンには中・東欧から移民が集まった。1910年の人口統計を見ると、帝国全域で5100万、首都で210万余の数値がある。200万のうち、17万をユダヤ人が占めた。「世紀末ウィーン」はユダヤ人の絶頂期と重なる。ここから作曲家グスタフ・マーラーほか文化界のスターが出た。オスマン帝国のユダヤ人のための祈祷(きとう)所トルコ人シナゴーグ(ユダヤ教徒の会堂)まであった。

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 第1次世界大戦の敗戦(1918年)により帝国は崩壊、旧帝国のドイツ人による新国家ドイツ=オーストリア共和国が誕生した(翌年、民族名ドイツの削除を戦勝国から要請され、オーストリア共和国と改称)。ドイツ民族主義はドイツ人の分断を憂い続けた。オーストリア生まれの民族主義者ヒトラーの行動は明快だ。ナチスドイツはオーストリア併合を通じて、ドイツ人の統一という民族主義者の悲願をついに達成した。宿願成就とは裏腹に、彼らが歴史に残した恥辱の大きさは途方もない。ドイツ人を虐待する外国勢力とその黒幕としてのユダヤ人という世界支配の陰謀論をでっちあげ、瓦礫(がれき)と人間の大量殺戮(さつりく)工場アウシュヴィッツを現実にしてしまった。

 1945年4月、ウィーンで解放を迎えたユダヤ人は5千人強。それに強制収容所からの帰還者2千人余が加わる。しかし生存者の多数は虐殺のトラウマにまみれたこの忌まわしい都市に残ることを望まなかった。戦後ユダヤ人共同体は少数の生存者と新移民によって築かれる。

 新移民はおそらく、偶然が重なってウィーンに住むことになった。冷戦時代のオーストリアには、東欧から北米・イスラエルに移動する際のトランジット(通過)国の役割があった。新移民は出国から入国の過程で、経由地の第三国に居住することを選んだ少数の人々というわけだ。彼らの内訳を見てみると、旧ソ連・東欧出身者のほか、イランのイスラム主義政権からの亡命者、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスタン(いずれも当時は旧ソ連)から出国した中央アジア系ユダヤ人などがいる。

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 このような多種多様なルーツをもつ人々を統一しているのが、ユダヤ人としての同一性だ。共同体の記録から筆者が読み取ったことは、次の2点だ。

 (1)人生は案外、偶然に左右されている。

 (2)共同体を存続させようとする強い意志により、出自や文化の差異は乗り越えられる。

 共同体の繁栄は歓迎すべきことだが、その象徴であるシナゴーグを見ていると、筆者は悲しくなる。会堂はテロリストに対する厳重警備の対象となり、ものものしさが漂う。

 人の移動、多様化はますます進んでいく。その一方で、ふとしたとき、それらは薄氷の上にあるような脆(もろ)い姿をのぞかせる。これが現代欧州の現実だ。

【なかむら・ひさし】1977年静岡県浜松市生まれ。秋田大学教育文化学部講師(ドイツ文学)。主な論文に「オーストリアの市民、ユダヤの国民『自衛―独立ユダヤ週刊新聞』」(日本独文学会『ドイツ文学』154)。「マックス・ブロートの『ユダヤの女たち』について」北大ドイツ語学・文学研究会『独語独文学研究年報』46。

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